変わるべきところは変え、守るべきところは守る。
弊社ホームページをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。高木特殊工業株式会社代表取締役の高木 恒でございます。
弊社は1969年の創業以来、「めっき」を通じてお客様に「より良いモノづくりのお手伝い」をすることを使命として、地域の皆さまと共に歩んでまいりました。特に、潤滑めっきと言われる、めっき自身が高い滑り性能を持っためっき被膜の提供は、1980年代後半より、自動車部品に対し、日本で初の量産対応が始まり、このことで、自己潤滑性めっき被膜の存在を、多くのお客様に知っていただけるきっかけとなりました。
そこから現在に至るまで、複数の高い潤滑性能を持った複合めっきを軸に、社員一同、モノづくりの「摩擦を軽減させたい」という思いを持ち、日々めっき被膜性能の向上に取り組んでいます。最近では製造業を取り巻く、特に化学物質規制と環境対策の動向は、急速に変化しており、環境への配慮の課題と、その解決は、特に重要となっています。弊社はこのような変化に迅速に対応し、環境負荷物質の低減・排除を、世界的な法規・基準に先んじて対応すべく、最先端の知識を習得し、お客様だけでなく、地域社会にも貢献できる企業として、日々邁進してまいります。
今後共、益々のご支援ご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。
2024年11月吉日
代表取締役 高木 恒
代表者のプロフィール
1966年 | 愛知県豊田市生まれ。 |
1978年 | 小学校6年~中学2年生くらいまでは、体が小さく背も低かったので、いじめられっ子でした |
1981年 | 中学3年生の時、陸上部キャプテンを経験。 |
1984年 | 高校3年生の時、生徒会会長と、バトミントン部キャプテンを経験。 |
1987年 | 大学3年生の時、バトミントン部と、応援団親衛隊を掛け持ち。 伝統ある東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の応援も経験。 |
1999年 | 地元愛知県の機械メーカーに就職。 工作機械の製造、販売(海外)、メンテナンスを経験。 バブル崩壊の厳しい時期も経験。 また、20代後半、英語もしゃべれないのにアメリカ駐在。 挫折と失敗の連続で、とても苦しんだ時期。そこを乗り越え、少し天狗になったところで、上司と喧嘩し、降格・左遷も経験。 この経験が、いまの自分の基礎となるほどの、色んな事を勉強させてもらった、大切な時期たっだ。 |
2005年 | 地元のツーリングメーカーに転職。 アジアを中心に、営業として、各国のローカル代理店と一緒に、中国、東南アジア、インドと、さまざまな国の現場で汗をかかせて頂けた。 ここでも幾度となく挫折し、失敗し、成果も出なかったこともあったが、現地のいろんな人たちに助けられ、感謝し通しの13年間を過ごした。 |
どうしてこの会社を引き継いだのか。
会社の創業者である伯父と、そのご長男(従兄)から、会社継承のお話しを頂いたことがきっかけ。
また、日本で最初のPTFE(テフロン)複合無電解ニッケル-りんめっきを、自動車部品向けに量産対応した会社であったことも、大いに興味が沸き、会社を引き継がせていただく事を決めました。
その他にも、現在の工場、自宅の土地は、私の祖父と祖母が開梱し、創業者一家はじめ、私の父達が大切に守り続けた場所です。
世の中も変化していく中、環境にも、今まで以上に配慮をし、変わるべきところは変え、守るべきところは守り、スタッフのみんなと一緒に、会社を発展させてゆきたいと思います
この会社で何をしたいと考えているのか
創業者が築き、先代の社長が守って来られた、我が社の技術を守りつつ、いままで以上に自然環境、地球環境に配慮した、環境配慮型のめっき屋を目指し、更なる技術力の向上に努めます。
そして、世の中の『摩擦でロスする』様々なエネルギーの低減を、潤滑系めっきにより、いろいろな分野のお客様へ、支援できる会社に、してゆきたいと考えています。
この先どのような目標があるのか
我が社のめっき技術の向上もそうですが、現在の日本の食糧自給率は、この数十年で減少し続けており、我が国の子どもたちの将来にとって、現在の章句量自給率の数字は、安心できる数値ではないと感じます。
農林水産省のホームページには、令和12年度までに、カロリーベース総合食料自給率を45%にする方針が書かれていました。ここにも我が社として協力できる事がないものかと、考えています。
趣味や特技
趣味はゴルフ。東南アジア時代は、5日で7ラウンドするほどのゴルフ好き。
ほかに愛車でドライブ。